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「理想の暮らし」

ここ3週間ほど???心の中はひどい嵐が訪れていたのですが、やっと理解し、受け入れることができました。自分が自分をしばっていたものがまた一つとれて、更に自由になれた自分を感じています。

そんな中、以前友人が教えてくれた近藤麻理恵さんの「人生がときめく片づけの魔法」という本を読んで、実際にやってみようと思い始めました。自分の好きなものに囲まれる部屋にしたいなぁ

物を捨てる前にまずは「理想の暮らし」を考えるそうです。自分が「片づいた部屋で生活している様子」がありありとイメージできるくらい、具体的に考えることとのことで。。。。どんな部屋が理想なのか、図書館でいろいろ本を借りてきてみているのですが、具体的にとなると意外に自分の好みってわからないものでびっくりしています。部屋にあるものすべて変えることすら選択肢に入るからなのでしょうね~。いろいろな意味で無意識のうちに人は色々な制限を自分に課しているんですね。

ん。。。はて、「私の理想の人生」って?具体的にありありとしたイメージ???今も幸せといえば幸せなんだけど、「私の理想の人生」?っていわれてもパッと具体的にわからないかも。。。右脳の考え方でも、宇宙の法則でも、具体的なイメージって強い力?が働くといっていますよね。それを本当に引き寄せられるといっています。

そうはいっても、なんでも一つずつ、一歩ずつです
まずはしっかりと具体的なイメージを持って「理想の暮らし(部屋)」を目標にすることにします。それだって、私の「理想の人生」の一部です。「自分の理想の部屋で暮らすこと」を想像するだけでもワクワクします
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「自分中心心理学」

先日、古本屋さんで「自分中心心理学」という文字が目に入ってきました。石原加受子さんという方が提唱しているそうです。ちょっと気にかけていたのですが、昨日思い立って、図書館でその方の本を借りて読んでみました。

わがままを通すという意味ではなく、自分を大事にする観点は共通しており、具体的な日常の中の話しでとてもわかりやすく、心の動きがとても参考になりました。よかったら読んでみてくださいませ。

私が読んだのは、「人間関係に奇跡を起こす83の方法―やり方ひとつで天国・地獄」「離れたくても離れられない人との距離の取り方」です。たまたま昨日図書館にあった2冊です

あなぐま17のライブに行ってきました。

しばらくアップしていなくて、すみませ~ん

昨日は友人でもある、あなぐま17のライブVol.2に行ってきました。
結成から来月で1年とのこと。グループ結成からの彼女たちを知っているので、その成長ぶりには本当に感心しています。すべて自作の歌と曲で約1時間のライブでした。緊張してはいるようでしたが、彼女たちのカラーが出てきていて、輝いてきたなぁと感じました。とてもいい感じでした。私はちょっと頭にこびりついてたことがありましたが、ライブが始まった途端にスーッと消えていました。まさしくサウンドセラピー。すごい!!私は特に前半がとてもよくて、何回か鳥肌立っていました。
あなぐま17、これからも応援しています。がんばってね♡。

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あちゃ~と笑い飛ばそ!!!

最近自分に意識を向けていると、気づきも多いのですが、その反面相変わらず自分を判断する自分の存在がとても苦しくなるときがあります。
判断をはずせば、ものごとがシンプルに出来事だけになり、受け入れやすくなります。
なのに、判断して、判断した自分を駄目だなと責めてしまったりしてしまう癖が時々顔を出し苦しくなったり。もっと早く判断が外せるようになりたいものです。っていうか、その前にまず責めてしまう自動装置をはずさねば

そうだった、見つけたら、あちゃ~またやっちゃったぁ~って笑い飛ばせばいいんでした!!!

あと、さまざまな恐れも見えてきています。面白いもので、欲しいものが欲しいほど、得られないときの悲しみが大きいので、恐怖も大きいです。目の前で実現しそうなほど、リアルに失敗する残念さを感じてしまって怖くなったり。

でも、これって視点が得られない時とか、失敗にあるのが問題なんですよね~。視点を肯定的は方にすべきなんですね。視点を移したうえで、そのためにはどうすればいいのか考えればいいと知ってるのにすぐ忘れてしまう。これもなかなか手放せない癖ですね~。こちらもあちゃ~やってしまった~で笑い飛ばそう!!!。

判断と、恐怖をクリアして、さらにワクワクな毎日にしていきたいものです

自分もおなじことをしていた。。。(もっと深く。。の続き)

先日のきづきは、幼い私の心が感じた真実だ。。

大人になった今の私は当時の彼女の事情を理解してみることができるはずだ。
記憶をたどって、彼女の立場にたったとき、あらたなことが見えてきた。我が家は父の単身赴任が長く、引越は私が4年生までで5~6回もしていてた。母は私たち3姉妹を一人で育ててるような状態も長かった。あの頃だかららくらくパックもないし、引越自体も母にはかなり負担だったことだろう。そのたびに環境は変わり我々の学校のことや、自分の人間関係もやりなおし。経済的にもあまり余裕があった覚えはない。両親とも地方の出身で田舎者の劣等感などもあったかもしれない。頼れる親戚もいない。これだけ見てみても、当時大変だっただろう彼女の姿が見えてきた。当時の私が悲しい思いをしたのは事実だが、母も母なりに苦しい時期であったに違いない。やりきれない気持ちもあっただろう。そういえば、忙しさなのか母がどこかイライラしてる時に体験した気がする。精神的にいっぱいいっぱいの時吹き出してしまったことだったのかもしれない。

それに平行して、これまで無意識に私自分自身も母と同じことをしてた自分にも気付いた。先日のきづきまでは痛みにきづいてなかったため、同じ思いを人にもしてきていた。(痛みをしっかり感じ切って受け入れてないと、自分も同じ思いをひとにさせてしまうのだ。きっと母も母親との関係でそういう思いを味わってきたのだろうと思う。)そういえば、怒るほどになった時は私も心に余裕がなかったり、忙しかったり、わかってもらえなかったりしてた時だ。だが、同じことをする自分というのは受け入れがたいところがある。自分が自分を責めてしまうからだ。責めてる自分に気づいて受け入れ、次に進む。それを外すと、「せっかくの優しい気持ちを受け取らず、その人たちに真摯に謝罪をする。

そしてまた進んだとき、息子と夫の顔が浮かび、初めて私はこれまでさまざまに自分に差し出されていたやさしい気持ちや愛に気づき、胸が熱くなった。嬉しくて、ありがたくて、涙がとまらなくなった。心に余裕がないとき気が利かないと、つい家族だから手加減なく否定してきた自分。だけど、本当はたくさんの優しさと愛をくれていたのだ。。。もっと優しくされたい、大事にされたい、愛されたいと感じていた自分は、本当は差し出された愛を自分が受け取ってなかったのだと気づいた。普段の何気ないところでも、家族などがささやかな気遣いや優しい気持ちからしてくれることも結構多いことにきづいた。せっかくの好意を無意識に否定し受け取ってこなかった自分にきづいた。

誰かは私にはなれない。私も誰かにはなれない。だから、一生懸命推し量っても、行為自体は喜ばれるかどうか、うけとられるかどうかわからない。それは仕方がないことだ。でも、思いやってくれた心は受け取れる。気持ちは受け取れる。気持ちを受け取ったら私はうれしくて暖かい気持ちになり、その相手も嬉しい気持ちになれる。行為そのものはともかく、優しい気持ちや気遣い、愛だけはしっかり受け取りたいと思う。なにより自分の幸せのため、そしてその相手の人のために。

否定的な気づきは、とても受け入れがたい。でも受け入れてしまうと、気持ちが楽になったり、今まで気づいてなかった幸せにもつながっている。

招福猫児(まねきねこ)

ブログを始めていまのところ私自身の気づき、癒しことを書いていますが、スピリチュアルに馴染みのない方に??私のお手伝いしたい癒しがどのようなものか、少しだけでも知っていただきたくて、細かに書かせてもらっています。それも私ですが、こんな私もいます
やっと絵文字がわかったっ!!

写真縮小も今のパソコンではよくわかってないので、参加した荻窪クラッシックカメラ倶楽部のブログに写真載せていただいたものですが、よろしかったらどうぞみてみてくだださい。

この日初めてフィルムカメラをレンタルしようと思っていたのですが、訳あって断念。今度はぜひ体験してみたいです。なので、手持ちの一眼レフのデジカメでとったものです。世田谷線で豪徳寺に行ったのですが、想像以上に大きくて、趣のあるとても素敵なお寺でした。なのに、写した写真で気に入ったのはなぜかまねきねこ。harumi撮影の招福猫児が私の写真です。

そうそう、小学2年?の時、ランドセルを忘れて学校に行くようなおバカなヤツも私です。下ろす時になって、「ランドセルが消えた。。。」と姉に泣きつき、結果は家にあったという。。。えへへ
よろしくお願いします。

もっと深く。。。

昨日の気づきを経ても、まだ今日も一日いまひとつ「楽しくない」し、すっきりしない私がいました。
あれやこれや、やりたかったことを考えたり、やってみようとするけれど、なにかどうもおかしい。
あれは、ただ「いつもの状態」に気づいただけで、まだ根は深いんだとわかる。

気づくべき何かは、自分自身が受け入れられる分ずつやってくる。(私は昨日の慢心していた自分が恥ずかしい。。。)
静かに自分に向き合った時にようやく気がついた。夜更けの声の時間??で意識が少しずつ定着して、紐解けてきている。

「私はずっとずっとどこか暗く満たされない気持ちでいた。」小学校にあがるころにはすでにそうだったし、現在までそれは続いていた。劣等感や、無価値感といった否定的な感情を受け入れていき、心はとても楽になってきていたが、その思いは確かにまだずっとずっと私の中にいた。思えば、なぜ心から楽しめないのか、それはずっとなぞだった。でも、私にはそれがいつものことで、意識をスルーしていっていた。

今回の気づきのもとと同種の悲しみの感情をつい先日も再現するように味わっていたのに、意味はあると感じながら、受け入れたくなくて、本気では深く感じることをしなかった。

先週の師匠のワークで師匠は一言私に言った。「今、楽しい?」私はすぐには答えられなかった。
なぜだろうと思ったが、またスルーした。

きっと意識してないだけで、いくらでもメッセージは来ていたのだろう。
自分を知り、見つめる上で、まず「気づく」ことが始まりだ。

ようやくいつも「も暗く満たされない気持ち」でいることに気づき受け入れた。実はそこが始まりだったのだ。

根は私の母だった。念のため、誤解がないように書き記しておきたい。出来事の直後はさまざまな感情を感じている。しかし、私が気づくべきエッセンスを見つけたとき、それは切り離され、「私自身」の問題になる。だから、それを見つけた今、私は母をうらんだり、憎んだり、責めたりする気持は全くない。

子どもの私が感じていた母は気分屋というか、きまぐれなところのある人だった。私の悲しみは、どんなに優しい気持ちで彼女のためにする行為でも、その時の意にそぐわない場合は、その行為は100%否定され、その優しい気持ちさえ受け取られることははく、その上怒られたことだった。幼い私にとってそれは理不尽で、どうにも納得できず、その悔しさと悲しみは大きかった。自分が悪いのだと思いこもうとしても、前はそれで褒められたりしている。その時々で同じことをしても褒められたり、怒られたりすると感じていた。だから、考えても答えはでない。その悲しさを受け止められなかった私は、意識の中で忘れることにしたようだ。そして同じ思いをする経験を何度何度も繰り返した。そして理由はわからないのに、表面には「いつもどこか暗くみたされない気持ち」の私があらわれている状態になっていたのだと気づいた。

そして、ついに私は今、その感情に向き合う時にきたのだ。泣けないくらいに固まっていた内なる私から「やっとわかってくれたんだね。」と言う声が聞こえた。やっと見つけた。見つけたよ。見つけた時、そして見つけられた時(「統合」)の味わった人にしかわからないなんともいえない歓喜の感覚がきた。(見つけたものが大きければ大きいほど強い喜び。)

「悲しくつらかったこの思いを一緒に感じきって、私と一つになろう!」と心の中で見つけた自分に言った。そして、私はその暗い自分と悲しみを受け入れた。それは「暗くて満たされない自分」と悲しみを私の中から消すわけではない。ただ、それは私の一部ではあるけれど、私のすべてではない。私の中には「楽しめる自分」だっているのだ。だから、今の自分が気づいてあげて、しっかり受け止めることで、「私」の気が済むと静かになり、今度は「楽しめる自分」に光をあてることができる。意識の深い部分で、悲しかったんだね、もう違う自分でもいいんだ、楽しんでもいいんだと気づくことで意識の変化はおこります。急だと意識が壊れてしまうので、ゆっくり徐々にです。

多くの人は自分のつらい悲しみ感じることを恐れ、拒否します。でも、もしそれが、目に見える愛しい誰かがだったらどうでしょう?そばにいって、肩を抱いて、涙を拭いてあげるでしょう?なにもできなくても、そばにいて寄り添ってもあげるでしょう?私の学んできた癒しは、意識の中で自分自身が、つらくて悲しくて泣いている自分自身のそばに行って、肩を抱いて、気が済むまで泣かせてあげる。気持ちを吐き出させてあげて、楽にしてあげることです。そして「そんな自分も自分の中にはいる」と存在を認め、受け入れてあげることです。だから、本当の癒しは自分自身にしかできないのです。

私は「暗く満たされない自分」と根っこにあった深い悲しみを見つけ自分の一部に統合で来たことが、本当にうれしい。

聞こえないふり

私はひと眠りした夜更けや、明け方「心の声」が聞こえてきます。今回は午前0時すぎ。(9時に寝てしまったもので。。。)。眠くても意識は起きてしまっているので、起きてノートと会話をすることにしています。気のすむまで会話をすればそのあと眠れます。逆に起きて会話をしなければ、よく眠れないうえにせっかくのメッセージがわからなくなってしまうのです。それはともかく。。。

先ほど「こころの声」がきこえてきました。
友人の心の声として「私は弱者なのに気にかけてもらえない」というものでした。
隣に寝ている子どもの顔をみたら、今度は「ゲーム以外楽しいことがない。」「ゲームをしたいのに、宿題とプリントをしないとしたくてもさせてもらえない」との声が響く。

先週で終わったのかと思いきや、相変わらず、「見ようとしない。考えない努力をする。」事象が見え続けていました。気をつけていたのに、私自身に寄り添ってなかったのか。友人や子どもの心に寄り添ってなかったんだ。
と反省する一方、どうしようもなく悲しくなっている自分に気づいた。

と「自分の反映!」との声。私の反映??私に置き換えてみると。
「私は弱いのに気にかけてもらえない。」
「私は楽しいことがない。」
「私はやりたくないことをやらないと、やりたいことをやらせてもらえない。」
ぎゃーーーーっ。心当たりがある。。。。涙が浮かんできて胸が熱くなる。。。。そして腑に落ちた。
そうだったんだーーーーーっ。

ひとつめのは、「私はもっとかまって欲しいし、頼りたいし、甘えたいのに」、とちょっとすねてる。んー、ちゃんと向き合おう。
じゃあ、楽しいことって何?やりたいことは?
やりたいことはヒーラー以外にははっきりわからない。。。楽しいこと???私って楽しくなかったんだ。でも楽しいことがわからない。いくつかあげてみるが、よくわからない。その中のひとつに友人の荻窪クラッシックカメラ倶楽部(リンク参照)が浮かんだ。私やってみたかったのかな?カメラはお金かかるから無意識に却下してたのかな???6日に撮影会を見つけた。とにかく行ってみようと思う。行ったら何かを感じるに違いないから。朝になったら連絡してみることにしよう。
自分のちっぽけな?心の希望はいつも後回しか、そう、聞こえないふり。ごめんね。もっと向き合います。私だって楽しんでいいし、もっとやりたいことをしてもいいんだものね。

これまで3年以上私は自分を見つけては受け入れてきたけれど、終わることを知らない。いつまでたってもポコポコと見つけてほしい私は湧き出てくる。繰り返し出てくるものも少なくない。心の声がなかなか見つからないこともあるけれど、見つけた時の嬉しさは格別だ。こころって、果てしなく深いけれど、私はこの見つけては受け入れていくという作業が大好きなのだ。そして、その自分には素直に行動してあげたい。素直に行動するときの自分ってなかなかかわいいです。

初心

昨夜は2時間以上もかかって書いたのにもかかわらず、操作を誤り、すべて消え。。。。。少しやり直したものの、
これもメッセージと受け取り、あきらめました。
今朝は気を取り直し、なんどか途中まで書くものの、数回消え。。。一度断念しました。今思えば、書きたいこととちょっと違っていました。

さて、師匠のブログにもありましたが、改めて初心を思い出し見直す時と感じました。

師匠に出会ったころの私は、精神的にも肉体的にもボロボロのぼろきれ状態で、どうにか違う現実をつかみたかった。無我夢中で懸命に自分を見つめ、受け入れ、少しずつ少しずつ癒されていった。しかし、今の私は現状に甘え、いつのまにか、ぼろきれの自分と、あんなに強かった切なる思いのことは忘れてしまっていた。現状に甘えていた。そのことにやっと気づきました。私は自分自身を生き、自分が望む人生を送りたい。それに向かって気持ちをあらたに歩いていこう!!

あー、でも同時に恐れて、逃げたい自分もみつけてしまった。その自分も無視せず一緒に頑張ろうと思う。
本当に望むことに手を伸ばしたいのに、とても怖い。こころって本当に不思議で面白いものです。

こころに寄り添う

最近私はずっと「気付くべきことを考えないうに、見ないように、気付かないふりをする」事象に囲まれていました。
現実は自分の反映。私の気付くべきことはなんだろうと自分自身に問いかけながらも、目の前の雑事に手を止めない自分がいました。それは、私の心が、「気付いてほしいことがあるんだけど。。。」と一生懸命訴えているのに、雑事をしながら、片手間で自分の声を流そう流そうとしていた自分自身。やっとそれに気づいて、「自分自身とつながるノート」を開き、しっかり自分に耳を傾けてみました。私がずっと見ないように、考えないように、気付かないように避けてきたものは自分自身でした。もっと的確にいうならば、「自分自身に寄り添う」こと、自分の声につねに耳を傾けることです。それはずっとずっと師匠が口を酸っぱくしていっていたこと。それがようやく心の理解として府に落ちました。

週末、友人の悩みに向き合う機会がありました。自分自身に寄り添い、注意深く注意深く彼女の心に寄り添うようにしました。彼女の真剣な取り組みと合わさり、だんだんに絡んだ糸がほぐれていきました。ついには思うもよらぬものに「これだ」と強く感じるに至りました。心の声に従い、ある提案をしました。最終的に彼女はどうしても受け入れたくなかった自分自身と過去を受け入れました。ひとしきり泣いた後、目に力が宿り、とても素敵な顔になりました。

その時、ずっと私の心に響いていた私自身の声、「私は、自分に向き合い、受け入れ、幸せになりたい人の力になりたいという強い意志がある!!!」というものでした。自分自身を癒すことは自分にしかできません。どんなに楽になる方法が目の前にあっても、どんなに自分の望むものがここにあるといっても、その人自身がそれを選択しなければ、得ることはできません。だから、私は真の意味で「誰かの心を助ける」ことはできません。でも、すべてではないけれど、私は自分自身を癒す方法を知っています。少しでもいいから力になりたい。お手伝いをしたい。


今日私は心の声に従い、一歩を踏み出し、ブログを立ち上げることにしました。二人の師匠、そして、この出来事を体験させてくれた友人に心から感謝します。ありがとう。
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harumi

Author:harumi
こんにちは東京在住のharumiです。私は2009年春頃、精神的、肉体的にダウンし、うつ病寸前に至りました。師匠坂下宏光氏(と、その後彼の相方となったMIEKOさん)に出会い、ワークを通じて、少しずつ自分の心に向き合い、受け入れていくことで自分自身が癒され、楽になれることを実際に体験してきました。自分を生きるため、もっと幸せになるために、自分の心のメッセージに気づき、受け入れていくお手伝いができればと考えています。

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