スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

もわもわ

だいぶブログが空いてしまいました。書こうと時々思ってはいたのですが、なんだかかけなくて…。

またちょっとずつ書いていきたいと思います。


このところ心がもわもわすることがよくあります。

人からどう思われるかを気にしてるというのが表面的に感じていることですが、

つまるところ、私の行動、言動で、「見てもらいたいと私が望むイメージ」、「こうだと自分が決めたイメージ」がくずれて、
がっかりされたり、悪く思われたり、そして嫌われるのではないかとか、ひとりぼっちになるのではと怖がっているようです。

先日友人Tに、だれにどう思われたいか、思われたくないかをみたらどうだろうとアドバイスをもらった。

そこから探っていく自分の思い。でてくるでてくる。きづいてなかった自分の思い。
そうだったのかぁとびっくりしたりしています。

と、一方で、否定的感情を感じることを強く否定していたんだなとわかってきました。

これらは先日の師匠の話を自分に照らしてわかったきたこと、みえてきたことです。
まさに私を長年苦しめてきた観念、感情へのアプローチと感じています。

実は今もまたもわもわです。

はてはて、またノートに向かって自分をみてみよう。
スポンサーサイト

これをもって自分を信用しよう。

今日は、「馬鹿だから」「できないから」私は自分を信じられないという自分がでてきました。

そうだったんだぁ。

あれ??馬鹿だと、なにもできないと、信じられない人なのだろうか。
すごくキレてなんでもできるというところをもってその人を信じられるだろうか。

馬鹿でもなんでも正直でまっすぐな人なら、私はひととしてその人を信じられる。(能力が必要な分野の意見はたぶんあまり信用できないだろうけど。)
ものすごくできても誠実じゃないひとを私は信用できない。

私は自分が「正直でまっすぐな」であると思っているし、信じている。それをもって私は自分を人として信用できると思いました。そう認めた時、他人に対しても信用できる広さが広がったように感じました。意識は繋がっていますね

自分がよろこんでるのを感じます。
そして、以前より人を少し多く信じられると感じられるのは幸せな気持ちです。

ふぬけ。

仲間のひとりのブログの題も「ふぬけ」でしたが…。

今日私は、これまで自分が「言葉そのもの」「見えるもの(態度、行動)」にものすごく比重をおき、それを頭で分析し、理解するという形で生きてきたんだなぁということに気づきました。

なのに、師匠いわく、コミュニケーションの8割は目にみえないところ。

思えば、見えるもの&頭脳で対応してきたために、融通がきかなくて失敗もたくさんした。納得のいかないことがとてもたくさんあった。あれは私の問題だったんだと思ったら、ものすごく泣けてきました。

これまでの自分はなんだったんだ。

人とうまくやるために、人に嫌われないために、ひとりぼっちにならないために、喜んでもらうために
あんなに頑張ったのに。一生懸命考えたし、ものすごーく気も遣った。私はものすごく疲れたし、大変だった!と心の声が聞こえました。

湧き出る感情が出切るまで、気が済むまで自分に寄り添っていたらふぬけになりました。

それはずっと頼ってきた柱のひとつだったのだなと感じます。

これから頭脳ではなく、自分の感覚を探っていこう、目に見えない部分を気をつけて感じてみよう、理解してみようと思います。それが見えたら物事はきっとシンプルで、もっとずっと楽しいのだろうと思います。

誕生日の気づきは始まりだったんだなあ。最近のいろいろが繋がっていきます。
(昨日のクラッシックカメラ倶楽部の撮影会でも、気づきのヒビが入ったように思います。Tomoko、Mayumiありがとう♪)

自由であるということ

ずいぶんと投稿があきました。

図書館でめずらしく講和のCDを借りました。

ひとつは鈴木大拙「禅と科学」。これは1960年に鈴木大拙氏90歳の時の公演を録音したものです。

もうひとつは渡辺和子「愛をこめて生きる」(講話集いのちを見つめて第5巻)

いろいろ感じるところはありましたが、今回は「自由」についてを書こうと思います。

鈴木大拙氏は西洋の「自由」と東洋での「自由」ということについて説明しています。西洋の「自由」は「なにかから解き放たれる、束縛から解放される」といったことが自由であるが、東洋の「自由」というのは、字のまま、言葉のままで、「自分自身である」ということをさす。と。外国語を訳するときに、日本語にはそれに値する言葉がなかったので、それを「自由」と訳してしまったと。

鈴木和子さんは、「自由とはやりたい放題するという意味ではなく、人間はもとから自由であるのだと。」彼女のいう自由とは、「ものごとをどうとらえるかという自由」が与えられているということでした。

例として、アウシュビッツの囚人のお話をだされましたが、あのどうしようもない状態でも、心の内側は常に自由だったと。生き残った人たちは、必ずしも強い肉体や頭脳が与えられていた人ではなく、こころに希望があった(希望を選んだ)ひとたちだと。

人はどんな状況でもこころは常に「望むものを選択できるという自由」。

渡辺さんは、マザーテレサのことも話されていました。マザーテレサが日本に来た時に彼女は通訳をしたそうです。マザーテレサが行くところ行くところでたくさんのフラッシュをあび、マスコミに囲まれたそうです。マザーテレサは嫌な顔ひとつせず、いつも笑っていたのだそうです。

渡辺さんが不思議に思っていると、マザーテレサは言ったそうです。「フラッシュが1つたかれるごとに、魂がひとつ神のもとに行かれる。私は神とそう約束したのです。」だから、フラッシュがたかれるのは嬉しいことなのだと。

「どうとらえるかを決められる自由」。

心でなにを想像するかは自由なら、空想の世界の中でなら、大量殺人をしてみてもいいような感覚すらしてくる。生きた何かを切り刻んでみたい自分もいるような気がする。もちろん、空想の中でならの話です。

人間に与えられた選択肢は無限かも。その数ある選択肢の中から自分が選択する。肉体をもって生まれてきたのは、それを肉体をもって、物質世界で体験してみるためかもしれないと思いました。

私がこの肉体をもって、物質のあるこの世界で体験したいことってなんだろうと考えさせられています。


「どうとらえるかは自由」であるのなら、好きに意味を与えていいのならと、
今朝、私はとりあえず、食器あらいの意味を変えてみようと思いました。

考えたあと、「食器の汚れが落ちるたびに、私のゆがんだフィルターが取り除かれていく。」(偏見を手放していく。)としてみました。

洗う食器をためるのはもったいなくなりそうです。掃除に広げていけるなっ。

どなたか、「食べること」にふさわしい意味のアイデアはありませんか?あったら教えてください。なんだかパシッとくるものが思い浮かばなくて…。

一日に何回もすることにいい意味を与えられたら、幸せですよね~。あと、痛みとか否定的な感情とかにも。

胸が痛い…

見えていなかった・見ようとしてこなかった自分の中の否定性がぼつりぽつりと浮き彫りになってきています。

他者に対して、「どうしてなんだろう・理解できない」と怒りを感じていたことが、本当は自分の中にあるものを映し出されていただけなのだと改めて気づかされました。

他者は鏡であり、自分の反映だと理解していたつもりでしたが、それだけみたくなかった自分ということなのでしょう。

胸が苦しくて痛いです。

否定していたことをしていた自分も私の一部であることを認めて、自分をちゃんと理解したいと思います。

深いところの、私が一番感じたくない感情につながっているような気がします。それはなんだろう…。
最新記事
プロフィール

Author:harumi
こんにちは東京在住のharumiです。私は2009年春頃、精神的、肉体的にダウンし、うつ病寸前に至りました。師匠坂下宏光氏(と、その後彼の相方となったMIEKOさん)に出会い、ワークを通じて、少しずつ自分の心に向き合い、受け入れていくことで自分自身が癒され、楽になれることを実際に体験してきました。自分を生きるため、もっと幸せになるために、自分の心のメッセージに気づき、受け入れていくお手伝いができればと考えています。

最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。